区のみどころ

小浜藩主:酒井忠勝夫人の菩提寺「浄土宗常照山 心光寺」(しんこうじ)

後瀬山東麓に建つ心光寺は、小浜藩主・京極忠高の夫人の位牌を祀るために孝安寺として1630年開創されましたが、酒井忠勝が1634年に京極氏を引き継いで小浜藩主になり、1641年に孝安寺は、酒井忠勝の夫人・心光院の菩提寺となり、寺名を心光寺と改めています。後瀬山を背にした大名夫人の菩提寺を匂わす瀟洒なお寺です。

出し物の由来

当区に関する祭りの出し物は、寛文11年(1671年)祇園会祭りに十三番手で練り歩いた「小刀売」が最初です。(拾推雑話)

次いで、安政5年(1858年)の祇園会祭りには二十一番手で出た「陣立」があります。(若狭遠敷郡誌)

明治維新後の1890年頃より、放生会祭りに「賤ヶ獄七本槍」の練り子を、また、昭和29年(1954年)には、一年限りでしたが「剣舞山車」が出ています。

その後、昭和31年(1956年)に、お城祭りの城内区から大太鼓を伝授し、これを(大太鼓)を恒久的な練り物として伝承し、現在に至っています。

出し物のみどころ

当区の大太鼓は他区の曲太鼓と異なり、大太鼓本来の勇壮にして豪快かつ迫力ある力太鼓が魅力です。

棒振りも他区の二人一組と違い、三人一組で舞う三人棒と半棒、二人一組の二人棒と多彩な技芸を披露します。特に半棒は、笛も加わり軽快に飛ぶ踊り太鼓と絶妙なタイミングで仕込む棒振りとのかけ引き、にぎやかな鉦、太鼓、華やかさをかもしだす笛と棒振りが祭り気分を一層盛り上げます。

また、大宮太鼓の魅力である力太鼓は、宮入が最も本領を発揮する舞台であり、テンポの早い「三つむすび」と「六つむすび」(通称:サブロク)が社に響き、宮入は一の鳥居までは「中攻め」、一の鳥居から二の鳥居・本殿までは力太鼓特有の迫力ある豪快な「あげバイ」へと変化し、屋形を道路いっぱいに使い練り回しながらゆっくりと本殿へ向かいます。この間、先導する棒振りも道路いっぱいに広がり露払いよろしく太鼓と鳥居・本殿の間を往復する様は、他区では見られない宮入で、これが祭りだという醍醐味を味わうことができます。

私と放生祭

小林一夫(57歳)

私が初めて祭りに出たのは、小学校一年生の時で、以来、高校の時に一度出なかった以外必ず参加している。私の若い頃は、若い衆が多かったこともあり、力太鼓の本領を見せようと巡行中に他区の太鼓と出会うと勇んで打ち合いを行い、お互いの指揮者が決めた打ち合いの時間が過ぎても、先に動くと逃げたと言われることから太鼓を先に動かそうとせず、トラブルになることも度々あった。当時そこには、打ち合い(現在の競演)のルールは存在せず、祭りは自分達が楽しめればよいとの思いで、見物に来ている人のことは意識していなかったように思う。

平成に入り、若狭地方最大の秋祭り「放生祭」を広く発信し、観光客を呼び込もうと「明日の放生祭を考える会(明放会)」が発足し、今まで自分達だけが楽しむ祭りから見物客を楽しませるという発想に変わったことで、競演という形が始まったのは大変意義深いことであったと思う。

大宮区が始めて競演を行ったのは、広峰区とであった。そこには、一定のルールの下でお互いの技芸を披露し、称えることで信頼と絆が深まり良い関係作りの礎となった。その後、住吉区も加わり大太鼓三区が揃ったことで、今まで以上に放生祭を見て楽しんでもらえるようになったのではないかと思う。

最後に、大宮区に限らず、他区でも少子高齢化が進み、祭りの担い手である若い人が少なくなっている現状があるが、この伝統ある放生祭が後世に受け継がれて行くことを切に願う。

大宮区