区のみどころ

生玉区は、昔、本町と八百屋町に別れており、本町(富沢町)は、商売の町として人通りも多く商売も盛んであった。八百屋町には明治 7年のあわ焼の時、火が八百屋町に這入り、入口の地蔵堂で火が止まった。これは、お地蔵さんのお蔭だと今に言い伝えられて火除けの地蔵として信仰されている。

出し物の由来

生玉区の蛭子山は、生玉区の前身である富沢町に住んだ町人学者木崎愓窓が著した郷土誌「拾椎雑話」の記述によると富沢町が延宝7年(1679年)までは、祇園会に「進上山」を出していたのが、延宝8年(1680年)には、「この節、新しく成ねりもの」として「夷山富沢町」とあり、この時から祇園会に「夷山」を出していたと思われます。

「恵比寿山」として山車の二階部分に恵比寿人形を飾り、明治になつてもずっと「恵比寿山」として放生会に出ています。

1680年の「夷山」当時の夷面が現在伝わる恵比寿人形の面部分の恵比寿人形は生玉区の本陣飾りとして残されています。

現在ある蛭子山車の制作年代はわかりませんが、山車の部品の裏書に「区長」でなく「宿老」とあることから江戸期のものであり、山車の形式を見ても山車の屋根の破風の部分に見事な彫り物があり、他区の明治以降の山車の格子の破風と形式が違うことからも製作年代が古いことが分かります。

出し物のみどころ

生玉区山車「蛭子山」は、330年の歴史があり、特に山車の見送りは、「東方翔(とうほうさん)」と呼ばれ中国伝説の3千年に一度しか実らない桃の実を持つ仙人の図で有名であります。織地は綴織り(別名 爪織り)で、昭和の初期、百円あれば家が建つと言われた時代、1千円の巨費を投じて作られました。

現在では、これだけの織地作成は事実上不可能であり、値段のつけようもない誇りのある伝統的文化遺産であります。

「蛭子山」の名に因み、出囃子は「釣竿」を伝統的な曲目としており、また、小太鼓技法のひとつ「踊りバイ」は、生玉区独特のものであります。

私と放生祭

大北千晴(12歳)

私は、去年で小学校生活の放生祭が終わりました。最高の放生祭にしようと自分でも心がけました。1日目は順調に終わりました。2日目の午前は大丈夫でした。でも、午後からは声が出なくなり共演が台無しになってしまったので最悪な放生祭になってくやしかったです。中学校でも「出てほしい」と言われたので小学校よりも最高の思い出にしたいです。

生玉区